例えば昨年iPhone 4Sが発売された時に、あまり目新しいものもなく期待はずれだったと言うメディアの見方が多かった。(しかし大変売れ行きは好調だったけれども。)
しかし4Sから組み込まれたSiriは実は革命的なアプリケーションではないか?!今回、ようやく日本語対応になった。
Steve Jobsの理想はテクノロジーによって個人のエンパワメントをすることだった。そこが企業向けのセールスに力を注いだマイクロソフトとの違いであった。アップルの標語は“The computer for the rest of us(普通の人々のためのコンピュータ)”であった。その流れの中で出てきたのがMacのGUIである。
更にその究極の形がSiriだ。未だ不完全な形ながらもSiriは自然言語さえ使えれば、PCやアプリケーションに関する知識がほとんど必要なく、キーボード入力さえいらない、子供から高齢者まで誰にでも使える究極のインターフェース。このもの凄さに気付いている人はどれぐらいいるのだろう?あまりピンと来ていない人が多いのではないか?
おそらくiTVにもSiriは組み込まれるだろう、と言うのが私の予測。
Siriを制する者は世界を制する!
※追記
最近、ドコモから「しゃべってコンシェル」と言う、Siriにように自然言語を理解するアプリが出てきていてしかも結構すぐれもの。もうそういう時代なんだな。orz
iPadで『マーカス・チャウンの太陽系』をダウンロードしていじってみて衝撃的体験をした。
内容は太陽系についての科学的な知識を伝える一種の教科書的なものなのだけれど、そのインタラクティブ性によりとても興味深く、高度な内容が一瞬にして心に定着するのだ。15分ぐらいの間に今まで専門外にてよく知らなかった短周期彗星、長周期彗星、カイパーベルト、オールトの雲の話、なぜ冥王星が惑星から準惑星に降格したか、岩石の惑星とガス惑星、などの内容が本当によく理解できた。腑に落ちた、と言うか。おそらく今後もこの知識は簡単には忘れないと思う。
この電子書籍がよくできている点は、網羅的ではなくて興味深いストーリーによって全体を貫いている点だ。そのため様々な知識が自然と吸収できる。
ヴィジュアルな本も分かり易いが、インタラクティブな電子書籍は分かり易い上に操作そのものが面白いため、入り込み易い。インタラクティブであると言うことは、ある対象に対してこちらが操作を加えた時にどのような振る舞いをするかを計算して返してくるということ。空間の3次元のみならず、時間(運動)の要素も含めた対象の4次元の振る舞いが表現されているということ。自分の興味の内容に導かれて行きつ戻りつしながら、より対象の様々な部分や奥深くまで入り込んでいけるということ。
この書籍の中でのインタラクティブの代表例は太陽系儀だ。すなわち水星がこれぐらいのところを回っている時に、金星はこれぐらいのところをこれぐらいの速さで動いていて、地球は…、と言った太陽系の星々の動きをシュミレーションしているもの。昔は銅製の太陽系儀があって、それによってそれぞれの惑星の動きをプレゼンテーションしていた。
今後、教科書はこういうものが多くなるのだろう。そうすると子供達は抽象的な数学や高度な知識もこれまでの何倍も速いスピードで吸収していくことになるのだろう。恐ろしいような素晴らしいような未来を垣間見た気がした。
スティーブ・ジョブスの伝記を読んだ。とても感動して言葉にならない。
人格的には多くの問題のある人で、精神医学的には自己愛性人格障害ということになるかも知れない。
しかし、彼のお陰でこの世界は間違いなく少しはましになった!(私の人生も含めて)
この記事もiPad2で書いている。最初はiPadもiPod touchが大きくなっただけと考えていたが、今ではもうそれなしには生きていけないように感じる。
OS X Lionも最初はその良さが分からなかったが、今ではMission Controlが気持ち良くて仕方がない。
彼の作り出すものは常に個人をエンパワメントすることとテクノロジーを結びつけるものだった。
彼はヴィジョンの天才であった。
ありがとう、スティーブ!Rest in Peace!
*本書の中でスティーブが死ぬ何ヶ月か前にビル・ゲイツと会話する場面にはしんみりした。しかも、これは本書ではなくネットの記事で知ったのだが、死ぬ一週間まえにもスティーブはゲイツを呼んで夕食を共にしている。泣けた!
ネット空間において人々の信頼を勝ち取るためには、通常のリアル空間における努力とは別の種類の努力が必要とされる。ネット空間においては、その人の行いは相手には見えず、その人が言語的に表現したことだけが、その人を表示しているためだ。
またリアル空間においては相手との人間関係の文脈(例えば友人、家族、職場の同僚、etc)が明確だが、ネット空間においてはそのような文脈は明確ではない不特定多数の人々を相手にしていることが多い。そのためにお互いの関係性があいまいであり、不安定である。
そのようなネット空間特有の信頼関係維持の努力が私にはとてもわずらわしく感じられることがある。何故、一々自分のしていることに言い訳をしなければならないのか。そんな思いになってしまうためだ。
大前氏の福島原発に関する解説 説得力があり、非常に分かりやすい。大前氏は以前、原発を設計されていたとのこと。
原子炉のメルトダウンだけではなく、国債のメルトダウンにも対処しなければ日本の未来はない模様。
福島原発周囲の何キロかの、あの地域は永久凍結しなければならないのか?
私も被災地で過ごしているけれども、現在はガスが止まっているのと、ガソリンが調達できないのが不便なぐらいで、沿岸部の方々と比べれば大した事はない。今は被災後の急性期を過ぎて、亜急性期の時期に入り、長期的な戦いの時期に入っている段階。疲れが出てくる時期。
訳あって『はじめての現代数学』(ハヤカワ文庫ノンフィクション)、『現代数学小事典』(講談社ブルーバックス)を読んでいるのだけれど、面白いねえ、現代数学!
笑いとはシステムにとってのゆらぎである。ゆらぎを失ったシステムは、硬直化し新しいものを生み出せなくなる。何故なら全ての新しいものはゆらぎから生まれるのだから。
Sporns,“Networks of the Brain”を読んだのだけれど、
Buzsaki, “Rhythms of the Brain”を読んだ時のような衝撃を受けた。本書のテーマは最近のネットワーク科学と脳科学を結びつけることである。
ネットワークの分析にはグラフ理論を用いており、スモールワールドネットワークとかスケールフリーネットワークとか、そういう話がバンバン出て来る。Spornsによれば、脳のネットワーク構造としてはスモールワールド性が強いとのこと。
また構造的なニューロンの連結(structural connection)と機能的なニューロンの連結(functional connection)の二つの観点から脳のネットワークを見ている。前者は空間的な構造分析で最近はMRIのテンソール画像などでニューロンの走行が非侵襲的に調べることができる。後者は時間的な構造分析で同じ時間に活動しているニューロンや時間的に関連した活動をしているニューロンを見るもの。
本書の中で一番目から鱗だったのは、ネットワークのハブにあたるのが脳の内側面に集中していることだ。各連合野はハブではなく機能的クラスターとしてモジュール構造を形成していて、それらをつなぐハブが内側面に位置している。Midline structureが自己言及的な自己意識と関連している(TRENDS in Cognitive Science Vol.8, No.3 March 2004)ことは知っていたのだけれど、それがまた別の側面から裏付けられた印象だ。
勉強になった事(1);人間に意識がある時にもっとも大脳皮質の中で賦活化されているのは楔前部precuneusであり、逆に無意識の状態の時にもっとも活動レベルが低下しているのも楔前部である。
勉強になった事(2);Default mode network。このネットワークは内側面に位置していて、通常賦活化されているが、注意を要するような課題が与えられると却ってこのネットワークは抑制される。
統合失調症では課題が与えられた時でもdefault mode networkが抑制されず、前頭葉内側面と後頭葉内側面の連結性が過剰になっていると言う。統合失調症の患者において外界に中々注意が向けられず、自己の内界にばかり意識が行くために妄想の世界から抜け出す事ができない様をよく表現していると思う。
アルツハイマー型認知症に関してもある洞察を得る事ができたが、これは今後の自分の研究課題としてここには書かない。
そんなこんなでお勧めの一冊。

中央大学と東京大学の共同研究で「情報をエネルギーに変換することに成功」PDF版。togetter。Takahiro Sagawa Web Siteこういう話には感動する!
マクスウェルの悪魔を実験装置として現実のものにした。
しかし、
「情報をエネルギーに変換」ではなく、
「ミクロのゆらぎのエネルギーを情報処理とフィードバック制御の過程を通してマクロなエネルギーとして取り出した」と言うことなのだと思う。つまり
「情報を利用してエネルギーを取り出した」と言う事。エネルギー保存則やエントロピー増大則を侵している訳ではないようだ。
新しいエネルギー源になるのだろうか?エネルギー産出の効率はどうなのか?ナノマシーンの動力源などに使えないだろうか?
興味は尽きない。
最近は複雑系の本を読む事から大分離れていたのだけれども、本屋で郡司ペギオ幸夫氏の『
生命壱号—おそろしく単純な生命モデル』(青土社)を見つけて、思わず購入してしまった。大変、興味深く、またその高度な内容に感銘を受けたのだけれど、一番強く感じたのは
「今の時代は哲学と自然科学の境界が曖昧になりつつある」と言う事だ。
研究の分野としては構成主義的生物学と言うことになるのだと思う。つまり、ある比較的単純な生命のモデルを作ってその振る舞いを観察しながら、現実の生命についての洞察を得ようとするもの。構成主義的生物学に関連すると思われる本はこれまでに
金子邦彦『
生命とは何か』(
レポート①、
レポート②、
レポート③、
レポート④、
レポート⑤)や、
池上高志『
動きが生命をつくる』を読んだ。それぞれが共通する方法論を持ちながらも、その出発点や目標とするところが異なることから、その論理展開も異なっている。
金子氏は化学反応のネットワークを出発点としながらそのモデルを作り、シュミレーションの結果と大腸菌による実験結果等と比較し、その妥当性を検証している。池上氏の出発点はロボットで、その背景には認知の身体化(embodiment)に関する興味があって、ダイナミカルカテゴリーの話などが出て来る。郡司氏の出発点は生命の本質を
「全体と部分の両義性」にあるとして、そこを出発点として非常に単純なモデルを作っている。つまり出発点がとても哲学的で演繹的なのだ。しかしもちろん現実の生命現象との比較検討(真性粘菌における実験)は行っていて、そういう部分は自然科学なのだけれど、半分は哲学の分野に足を突っ込んでいる。そういう方法論に関して異論を唱える向きもあろうけれども、逆にそのようなアプローチ故にその後の論理展開はクリアカットで分かり易い。様々な応用も可能だ。
哲学と自然科学の境界が曖昧になってきていると書いたけれども、郡司氏の著書の中では思考実験が単純なプログラム化され、そのシュミレーションの振る舞いが観察される。それは丁度、抽象的世界の動物行動学の様でもある。
氏の作った生命モデル“生命壱号”は2次元セルオートマトンである。それには内と外があり、外部からの撹乱があり、過去の履歴を現在の行動の中に取り込む履歴依存性がある。外部からの撹乱は食物の取り込みと排出と考えることもできるし、認知的に捉えれば生命にとってのある種の「経験」と考えることもできる。履歴依存性は過去の自分の振る舞いを利用するものなので、自己言及性でもある。生命壱号の運動にはアメーバ運動とネットワーク形成運動があり、認知の様式には探索と利用がある。それらは計算論的に言えば、それぞれ開かれた計算と閉じた計算を意味している。生命壱号は単純でありながらも成長したり、複製したり、問題を解いたりする。
郡司氏の問題意識の中心を「全体と部分の両義性」と書いたが、実際には著書の中では
「タイプとトークンの両義性」と表現されたり、
「マクロとミクロの問題」と表現されたりする。タイプとトークンとは記号の使われ方の種類で、タイプが一般概念でトークンが個別的具体例である。例えばコーヒーと言ったら飲み物の中のコーヒーというカテゴリーを指す場合と目の前にあるカップに入り湯気を立てている具体的な個物を指す場合がある。タイプとトークンの両義性は存在論的構造でもあり、認識論的構造でもある。氏はこれらの生命現象における両義性の問題について、多くの場合どちらからに還元されて理解しようとするアプローチになってしまうことについて、嘆いている。むしろタイプとトークンの媒介層、あるいはマクロとミクロの中間層が重要であり、本質であると主張する。マトゥラーナ&ヴァレラの
オートポイエーシスも
ウォルフラムのセルオートマトンも両義性の問題を単純化してしまい、本質をつかみ損ねている。オートポイエーシスとは自己制作であるが、そこでは環境としての自己(大文字の自己)と作られる自己(小文字の自己)が論じられる。大文字の自己も小文字の自己も未定義で徹底的に不定に留まらなければならないのに、何か確実に実在するもののように取り扱われている。ウォルフラムのセルオートマトンにおいては臨界現象としての
クラス4が生命現象のメタファーとして用いられているが、それも結局は決定論的カオスと周期的振動の共立に過ぎない。そこにおいてはマクロな現象は結局ミクロなルールに還元されてしまっている。郡司氏は生命壱号式セルオートマトンとしてウォルフラムのセルオートマトンのルールに一段階メタなルールを挿入する事で真の意味での創発現象を可能にする1次元セルオートマトンを提案している。それは観測者の載った計算システムであり、マクロとミクロの間に内部観測者を置いたシステムである。
本書を読む中で西田幾多郎の
「絶対矛盾的自己同一」という言葉を思い出した。今後も抽象世界と現実世界のスリリングな対話に注目していきたい。