Google Chrome for Macをダウンロードしたらウイルスにやられてしまった。それ以来、メールソフトの調子がおかしいので、メールソフトを変えざるを得なくなった。ウイルス対策ソフトはノートン・アンチィルスを使っているのだが、「ファイルを修復できません」と表示される。ノートンはイマイチか?
今後、統合失調症の方とも臨床の現場で接することになる関係で精神科関連の本を読んでいる(これまでは認知症の方々ばかりだった)。先輩の勧めもあって中井久夫先生の本や笠原嘉(みよし)先生の本を読ませて頂いている。中井先生の『最終講義』(みすず書房)や笠原先生の『精神病』(岩波新書)はわかりやすくて良い本だ。特に笠原先生の『精神病』は一般向けに書かれているからだろうが、非常にわかりやすい。すっと頭と心に入ってくる。直接、話を聞いているような感覚。本を読んでいてこのような感覚を受けたのは初めてと言って良い程だ。
過去に学校の先生をしていたADの患者さんが訴えが多かったので、あるNsが「先生、今、私、試験勉強で忙しいんです!」と言ったところ、相手は「ああ、そうか、試験で赤点取ったら大変だからな。」と訴えを引っ込めたという。これはなかなかうまいやり方だ。
人間は文脈(物語)の中に生きて、文脈(物語)の中でコミュニケーションする。相手が生きている文脈の中にこちらが入り込んで、その文脈の言葉を使えば、相手は受け入れやすいものだ。
神戸大学保健学科の関啓子先生のメロディック・イントネーション・セラピー(MIT)に関する講座に参加した。MITとは非流暢性失語の患者に発話の流暢性を高めることを目標にした介入で、簡単に言えば言語を音楽的な枠組みにのせるように再訓練する方法である。失語症の方は左の大脳半球が障害されている事が多いが、歌うように話をさせることで右半球を介して言語活動をするようなループを作ってしまうのである(右半球は音楽や歌、リズムなどの情報処理を担っている)。
認知リハビリという観点から言っても、失語症に関する言語療法という観点から言っても非常に成功している介入法ではないだろうか?と言うのはこの介入そのものは例えば10日間程度の短期間であったとしても、そして慢性期の患者であったとしても、その後、患者は訓練した言葉の使い方がうまくなるだけではなく、新しい言葉の発話も明らかに改善するからだ(いわゆる汎化が可能になる)。意外な事にBelin(1996)によるPETの研究では左半球障害の失語症患者7例で、MITを用いない言語課題では左の言語野に相当する部分の右半球の血流の増加が見られたのに比して、MITによる復唱課題では左半球の言語野を中心とした前頭前野の血流の増加を認めたと言う。
MITの大きなパラダイムは通常は左半球を使って発話しているのを、右半球を使った新しい発話のループを作らせる事だ。その為に介入者が患者に復唱させる時に最初は課題文を「歌う」。それと同時に手をリズミックに動かす。その事により脳の中ではおそらく神経活動のパターン同士の新しい結びつきが促される。患者は訓練を通して新しい脳の使い方のコツをつかむとそれを他の言語活動にも応用できるようになる。
認知症患者における介入にも多くの示唆が与えられた気がした。
参考文献
・ Sparks RW, Holland AL. Method: melodic intonation therapy for aphasia. J Speech Hear Disord 41: 287-297, 1976.
・ Sparks RW: Melodic intonation therapy. In: Language Intervention Strategies in Adult Aphasia, R Chapey (ed), Wiliams and Wilkins, Baltimore, 1981.
・ Belin P, Van Eeckhout M, Zilbovicius, et al. Recovery from nonfluent aphasia after melodic intonetion therapy: A PET study. Neurology 47: 1504-1511, 1996.

私は科学を愛するけれども、その限界も知っている。科学は絶対的な知識ではない。
哲学者のヒュームは個々の事例から普遍的な法則を導きだす帰納法的方法論の論理的誤謬性を鋭く指摘した。例えば太陽が東から昇ることが、過去においてどれだけ観察されたとしても、それは明日も太陽が東から昇ることを絶対的に保証するものではない。それは単なる経験則としてそうであろうと予測されるというだけのことだ。
また科学は何らかの観測手法によってその理論を確認するが、その観測手法や観測装置そのものが時代と共に変化、進歩する。そのためある時代における確認結果はその後になって否定される可能性が常に残されるとベイトソンは書いた。また同じベイトソンによる指摘は、我々がこの世界について手にする情報は常に何らかの解釈の結果であって、生のデータではない。例えばバラの赤という感覚情報であっても、それは我々の感覚器官による解釈の結果を受け取ったものである。(それはちょうどカントが「物自体」を知る事はできないと言ったのと同様の内容なのだけれど。)我々がある時に扱う情報はその時の宇宙のすべての情報を含んでいる訳ではなく、その一部分を切り取ってきたものに過ぎない。切り捨てられた情報を切り捨てて良いという保証はどこにもない。
19世紀の科学の進歩は我々の日常的世界を理解することにおける科学の絶対的有効性を我々に確信させた。しかし20世紀に入り、この宇宙は我々の日常的レベルを超えた辺縁において不可思議な姿を呈することが次々に明らかにされた。相対性理論は光速に近づくにつれて歪むマクロの時空の姿を明らかにし、量子力学においては素粒子の世界に置ける非決定論的世界観を提示し、複雑系の科学はこの世界の予測不可能な領域を我々に教え、ゲーデルの不完全性定理は数学的ロジックの限界性を決定的なものにした。
極限の世界は虚構と現実が交差した世界である。虚構=モデルを現実の世界に引き止めるのはほそぼそとした確認行為の数本の糸のみである。過去においては物が燃えるのはフロギストン(燃素)がふくまれているため、光が伝播するのはエーテルという媒体があるから、と信じられていたが現代においてはフロギストンもエーテルも虚構の産物として葬り去られた。それならば現在、量子重力を説明すると期待される超ひも理論が将来、虚構の産物とされないとも限らない。何が虚構で何が現実かは必ずしも明瞭でない世界が科学の中には明らかに存在する。
21世紀に住む我々はいかなる姿勢を持って、この宇宙と世界に臨むべきであろうか?それは我々に次々にそして無限に新しい姿を見せる宇宙の前に、謙虚な生徒の如く学び、素直に楽しむ姿勢であろう。我々は宇宙の支配者ではない。宇宙劇場に招待された観客であり、時に指名を受けて演じる役者であるに過ぎない。
最近の私のキーワードは"Effortlessness"。日本語では「努力しない状態」ということになるだろうか。この前の記事(
プライベートな事)でも書いたのだけれど、大きな仕事を終えた後の虚脱感の状態の中で今後のあり方をぼんやりとした中で探している。effortlessnessの中に漂いつつ、少しづつ霧の向こうに何かが見えつつある。形を取りつつある。フワフワと。