複雑系の認識論(4);科学と空想

  以前から空想と現実の問題、物語と科学の問題、を取り上げていますが、今回もその流れで。野家啓一氏の『物語の哲学』(岩波書店)がベースになっています。
  私たちは物語(文学)と科学を対比して、物語は虚構の世界、科学は事実の世界、を扱っていると考えていますが、はたしてそれは本当でしょうか?
  科学(少なくともルネッサンス期以降)はまず仮説を立てて、それに対して実験をして、その仮説を証明していくという方法論を取っています。過去の歴史を振り返ってみれば、今から考えるととんでもないような仮説を設定して科学者たちがそれを証明しようと奮闘していたことが沢山あるわけです。例えばフロギストン(燃素)。昔の人々はフロギストンという物質があってそれが燃えることによってものが燃えるのだと考え、それを証明するためにさまざまな実験を行っていました。まだ物質の基本元素などが解明されていなかった頃の話です。現代人は酸素が燃えることによってものが燃えるのだと知っていますから、馬鹿馬鹿しいたわごとを信じていたんだなー、ぐらいに考えるわけです。それからエーテル。以前は光は粒子説と波動説があって、時代によって粒子説が優位に立ったり、波動説が優位に立ったりして、現代では両面性を持ったものとして考えられているわけです。波動説を信じる科学者は光がエーテルという媒体を伝わって進んでいくと考えて、エーテルの実在を証明するために必死になって実験を繰り返しました。今から考えると何ともおかしなことをやっていたんだなー、ということになります。
  これらの例から考えると科学と虚構・空想というものが結構、近いということが分かるのではないでしょうか?つまり証明されるまでは虚構と事実の境界は不明確なのです。現在、事実と信じられていることも将来、虚構として一笑に付されるかもしれません。
  逆に物語や文学における虚構(フィクション)もあくまでも現実(心理的現実も含む)の一部分を汲み取っているからこそ、人々の共感を得たり、影響を与えたりすることができるのです。
  そんな風に考えると、空想と事実、物語と科学は案外、近い関係なのかもしれません。質の違いではなく、量や程度の違いに過ぎないのかもしれません。
  
by ykenko1 | 2004-12-15 13:10 | 認識論 | Comments(2)
Commented by halfmoon81 at 2004-12-16 10:39
私の子供の頃は、「空想科学小説」なる物が流行っていました。タイムトラベルとかスペースアドベンチャーなど、わくわくして読んだものですが、最近は少ないですね。科学が発達しすぎて、空想力が乏しくなったのか、子供達の夢が小さくなってきているような気がします。その反面、ネットの影響で架空とリアルの区別があやふやな子供も増えているようで、何となく心配です。
Commented by ykenko1 at 2004-12-16 11:41
悪しき科学万能主義の影響がいまだに残っていますが、世の中の流れも少しづつ変わりつつあるようです。これまでも私のブログで書いてきたことですが、科学的な物事の見方は人間と環境、人間同士などすべての関係性を切り離す働きがあります。一方で物語は情緒的なものを中心としてすべての物事をひとつに結ぶ働きがあります。そして人間は物語なくして生きられない存在ですし、物語る衝動とともに生きている存在でもあります。科学と物語が調和していくことが理想だと考えています。


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