Joseph LeDoux “The emotional brain”

以前、松本元氏の本でルドゥーが扁桃体には二つの経路があって、視床から直接入力がある早くて荒い経路と視床から皮質を介して間接的に入力する遅くて緻密な経路があることを発見したことは知っていた。今回、Joseph LeDoux “The emotional brain”(翻訳本;『エモーショナルブレイン』(松本元ら、翻訳))を読んだのだけれど、勉強になり、また臨床にも役立つ優れた本であった。初版は1996年で少し古い。

著者のルドゥーは元々はガザ二ガらと分離脳の研究に携わっていたが、その後、扁桃体や情動記憶に関する研究をテーマにして活躍しているニューヨーク大学神経科学センターの教授。

これまでの脳科学の分野では認知システムの研究が中心となり、感情システムの研究はおろそかにされてきた。認知システムの研究は脳や心をコンピュータに見立てて、どのように論理的な問題解決をしたり、チェスの試合に勝ったりするかを考えるようなもの。感情システムの研究が遅れた理由の一つには倫理的なものがある。被験者に強い感情的刺激を与える事は下手をすれば精神的なトラウマのような後遺症を与えてしまう事にもつながるからだ。ルドゥーらは動物実験も含め、工夫をこらしながら研究を進めたようだ。彼は感情の中でも特に恐怖に焦点を当てた。何故ならば恐怖は人間から下等動物にも通じる共通した感情であり、扁桃体との関連性が強いと言われているからだ。また恐怖はパニック障害その他の精神病理学的な症状にもつながる重要な感情でもある。

彼は認知システムと感情システムを比較する。認知システムが働くのは平常時で例えば歩きながら、食べながら、風呂に入りながら考えたりすることもできるし、必ずしも身体反応を伴わずに機能する。一方、感情システムが働くのはその人間にとって重要な状況、社会的な意味の時もあるだろうし、時には命に関わるような状況、であり、脈拍や呼吸が速くなったり、顔が赤くなったり、瞳孔が開いたり、と身体全体の反応が伴う。神経回路を調べてみても感情システム(特に扁桃体)が認知システム(大脳皮質)から影響を受けるよりも、その逆の影響力の方が強いと言う。例えば扁桃体は感覚連合野のプロセス(知覚・感覚記憶)・海馬のプロセス(長期顕在記憶)・前頭連合野のプロセス(作業記憶・注意)に影響を及ぼす。

扁桃体は意識の覚醒度(arousal)にも直接間接に働きかける。(1)大脳皮質全般への直接的な働きかけ、(2)覚醒システム(ノルアドレナリン、ドパミン、セロトニン、アセチルコリン)に働きかける事で皮質を間接的に賦活する、(3)自律神経系や内分泌系を介した身体反応のフィードバックを通して皮質を賦活する、等である。覚醒度をあげることは非特異的な効果であるが、それによって特的の認知プロセスの効率を高める事になる。

感情体験に伴う記憶について考えると、その刺激は海馬を介して顕在的なエピソード記憶となるが、扁桃体を介して身体反応を伴う潜在的な記憶として蓄えられる。そのためその時のことを思い起こすと、意識下のレベルで身体反応を伴う感情体験が再現され、そのことがPTSDなどの病理的な反応や訳もなくある人を嫌ったり、ある食べ物を嫌悪したりすることになる。これは認知症の方にもあてはまるかもしれない。認知症の患者さんでいじめられたり、馬鹿にされたりした体験がある場合、本人の意識にはそのエピソードは記憶されていないのだが、その人の情動や身体反応に残っていて、閉じこもりがちになってしまうことなどがある。

認知システムと感情システムの関係についてルドゥーは認知システムが感情システムを完全にコントロールすることが理想ではなく、二つのシステムが調和することがよいとしている。しかし具体的にどのようにとは書いていない。その辺りが知りたいところだが。

『EQ』で有名になったダニエル・ゴールドマンも彼の研究を高く評価している。
by ykenko1 | 2007-05-24 19:31 | 脳科学 | Comments(4)
Commented by わるねこ at 2007-05-24 22:36 x
僕も最近、情動、社会脳に興味をもって色々と調べていました。おそらく、海馬、扁桃体、島皮質、上側頭回、帯状回後部、紡錘状回あたりのネットワークが社会脳にあたるのでしょうか。広くとれば、運動野、前運動野なども含まれるのかもしれません。大脳深部内側に位置するこれらのMidline structureは、情動の表出と産出、他者認知、biological motionの認知、身体的モニタリング、情動反応、知覚運動系の統合などの諸機能に関わっているようですが、興味深いのはいずれも身体状態の認知や制御に関わる機能であること、さらに、これらのmidline sturctureが入出力を欠いた状態でも常に自発的に活動している"default-mode network"と重なってくる点でした。おそらく、意識の発達、成立にも無関係ではないだろうなと思っています。PTSDとの関係は、興味深いですね。
Commented by ykenko1 at 2007-05-24 23:27
Buzusakiの本でmidline structureとdefault mode networkの関係について書いてありましたっけ?ところで今回、私が学んだ事と言えば認知システムが我々に教える事が「意識の舞台」の上に載っている役者の様子や舞台背景についてであるとすれば、感情システムは舞台を照らす照明の色やBGMを変化させて舞台の雰囲気を一変させたり、観客に双眼鏡を掛けさせてより舞台の上に集中させたり、更にはいつの間にか観客を舞台の上の俳優(身体性をもった参加者)に仕立て上げてしまう、様々なパワーを持っているということでした。心身と意識・無意識の全体を包み込んでいるシステムとも言えます。
Commented by わるねこ at 2007-05-26 15:56 x
midline structureとdefault-mode networkについては、別の論文で読みました。
ちなみに、PTSDとの関連で思ったのは、精神医学では、よく「心因」によって精神症状が発現したなどと言われますが、やはり背景的な何らかの神経活動があって症状が出るとすれば、最終的にはもはや「心因」は存在しないと言えるようになるかもしれませんね。そうしたら、精神医学はこれまで通りにいかなくなりますが・・・
Commented by ykenko1 at 2007-05-27 00:07
>midline structureとdefault-mode networkについては、別の論文で読みました。
ですよね。Buzsakiはthalamocortical networkとの関連を指摘するのみだったように思いました。
>最終的にはもはや「心因」は存在しないと言えるようになるかもしれませんね。
「心因」のすべてを神経現象に還元できるかどうかは別にして、心因の背後には必ず身体反応が伴っている事は間違いないでしょう。

それから「クオリアと感情」というのも面白い論点かもしれません。


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