カテゴリ:科学と人間( 3 )

『「脳」整理法』を読んでいる最中

  最近、出たばかりの茂木健一郎氏の『「脳」整理法』(ちくま新書)を読んでいるのだけれど、いろいろ思索のためのヒントにあふれていて、いい感じである。例えば「偶有性(contingency)」と言う事を言っていて、それは偶然と必然の中間領域の現象を指している。「カオスの縁」と似ているのだが、確かにそういう現象はあるな、と思った。
  この本の中で物理的時間と主観的時間を対比させて、特に「今」という瞬間の重要性は物理的世界観の中では出てこなくて、一方主観的な意識の観点からすると明らかであることを指摘している。これを読んでいて思い出したのが、『物語の哲学』野家啓一(岩波現代文庫)の中の「時間は流れない、それは積み重なる」という言葉だ。このような観点は今後、認知神経科学を押し進めて行く上でも重要なものとなるのではないか?
by ykenko1 | 2005-09-08 23:00 | 科学と人間 | Comments(0)

「我思うゆえに我あり」再考

  デカルト的世界観の限界とそこからのパラダイムシフトの必要性が叫ばれてからもう何年ぐらいになるのだろう。しかしここ200年間、世界を支配した世界観からの完全な脱却のためには50~100年ぐらいはかかるのだろう。
  デカルトは厳密な知のあり方を追及して、すべてのことを疑って考え抜いたあげく「我思うゆえに我あり」という結論に到達し、そこから彼の哲学を出発させることにした。どんなに疑ってみても、その疑っている自分自身が存在すること自体は疑い得ないという訳だ。(しかし、その疑っている自分とはどれほどの存在なのだろう?過去の遺産や教訓を無視して、自分の頭の中から出てくるものからどれほどのものを生み出せるのだろう?)
  デカルトから出発した自然科学の方法論は大いなる成功を収めたが、それと同時に大きな副作用を残した。その副作用とは科学の方法論を適応すべきでないところにまで拡大させてしまったことから生じたものである。物質科学では観察主体と観察対象を厳密に分離することを第一として実験を行う。つまりは関係性の分離から出発する知のあり方である。しかし関係性を喪失したところには生命現象や人間社会の真実は見えてこない。
  「我思うゆえに我あり」ではなく、「我思い、思われる。ゆえに我あり。」と考えたい。我々は他者を思い、他者に思われる関係性の中に生きている。そのような関係性を無視して単に生物学的に生きたとしても、その人生にどのような意味があるというのか?人間は本質的に社会的存在である。
  よりよい社会のために関係性を重んじ、疑うことよりも信じることを重んじるような知のあり方を探っていきたい。
by ykenko1 | 2005-02-02 13:12 | 科学と人間 | Comments(2)

科学と物語

  眠れないので書いています(homeandhomeさんも最近は眠れないようですが…。平均睡眠時間)。
  it1127さんがブログで紹介していたスチュアート・カウフマンの言葉が気にかかっています(創発と物語(一))。科学と物語は調和しうるか…?
  かつては科学と物語は分ちがたく、むすびついていました。そして人間は神や宇宙や隣人たちとむすびついていた。ところが400年ほど前から科学と物語は分裂するようになりました。主観性というものを徹底的に排除し、宇宙の物語をばらばらに分解することによって近代科学は成り立ちました。それによって人間は自然をこんなにもコントロールできるようになった。しかし一方で失うものも大きかった。「科学はものごとを切り離し、物語はものごとをひとつにむすびつける」(河合隼雄)…私の好きな言葉です。
  人間は物語の中に生きています。人生の物語なくして人間は自分の価値を感じることもできません。カウフマンの言うように今は再び科学と物語が仲直りする時代なのかもしれません。人間は科学もまたひとつの物語だということに気がつきはじめています。
by ykenko1 | 2004-07-10 02:30 | 科学と人間 | Comments(3)