複雑系の心理学(1);自分を表現すること

  人間にとって自分を表現するとはどういう意味を持つのだろうか?自分を表現するとき、表現された「自分」とはどのような自分なのだろうか?またより良い自己表現とはどのようなものだろうか?
  人間は自分を表現せざるを得ない存在である。自分を表現することは人間の根本的な衝動である。野家啓一は人間は「『物語る欲望』に取り憑かれた動物」と語り、清水博は「生命の本質は自己を表現すること」だという。自分を表現し自己をさらけ出すことはまた自分を傷つける危険性も伴う行為である。それでも人間は自分を表現せざるを得ない。それが本能であり、宿命なのであろう。
  それではそのようにして表現された「自分」とはどのような自分なのだろうか?絶対的な自己というものが存在して、それが外に現れたものが「自分」なのであろうか?それとも環境や他者との相互作用のなかで立ち現れるのが「自分」であろうか?それは明らかに後者であろう。「自分」という存在もまた、環境や他者との関係のなかで社会的に構成されたものである。自分を表現したときに肯定的なフィードバックが環境から与えられれば、その自分の表現された側面は強化されるであろうし、逆に否定的なフィードバックが与えられれば弱化される。しかし、例え環境から否定的なフィードバックがかかったとしても自分が変わらずにある姿勢を貫くことによって、環境の方が変わることもある。自己と環境のせめぎ合いが常に存在する。
  また人間は他者からの視線にさらされる中でパフォーマンスとして自分を表現することがある。そのような自己もまた自分である。自己の中には公の部分と私の部分がある。
  より良き自己表現はいかにしてなされるのであろうか?
  良き自己表現とは環境や他者と相互に肯定的なフィードバックを繰り返しながら発展していけるような表現であろう。そのためには自己の中の公の部分を先立てながら、その中で私の部分も表現すること。それは宇宙のすべての生きとし生けるもののあり方だ。また歴史上のすべての偉大な先達たちが教えてくれたことでもある。 


参考書;『物語の哲学』野家啓一(岩波書店)
     『生命を捉えなおす』清水博(中公新書)
by ykenko1 | 2004-09-24 22:35 | 心理学・精神医学 | Comments(10)
Commented by homeandhome at 2004-09-24 23:09
こんばんは。褒められた子どもは、その面をのばすということが実際によくありますね。小さいときに褒められたから、この職業に就いたとか。肯定的フィードバックを繰り返しながら発展していくというのは、確かに起こりえることですが、その一方で、「生存」ということを考えるのであれば、「良き自己表現」というのは、優位に立とうとして、ネガティブなフィードバックをすることもあるのではないでしょうか。私はそういうネガティブな部分も人間の特性ではないかと思うことがあります。
Commented by ykenko1 at 2004-09-25 00:29
homeandhomeさん、こんばんは。もしかするとhomeandhomeさんの言わんとするところとずれてるかもしれませんが、生存競争のような表現の仕方ということでしょうか?確かに生きている限り競争はありますが、競争は良い刺激でもあると思います。それはお互いに高め合うことでもあります。しかし、競争が度を越してお互いを破壊し合うようなことになれば、これは回避したいものです。お互いがお互いの存在を認めた上での批判、建設的批判は良いものだと思いますが、批判のための批判や破壊的批判のようなあり方は不毛ですよね。
私は相手の存在を認めた上での批判のようなものは肯定的フィードバックと考えたいと思っています。破壊的なものでなければ批判もまた良し。
homeandhomeさんの話からずれてしまっているような気もしますが、またご意見いただければ、幸いです。
Commented by ykenko1 at 2004-09-25 07:45
それから、思いついたので追加しますが、エゴイズム的な自己表現ということですが、社会的なルールにのっとった上での自己表現や競争心は悪いものではないと思います。自然界の例をひけば、例えばライオンが自分の空腹を満たすためにカモシカを食べるとする。これ自体は食物連鎖という自然界の法則の中でのあり方ですから、悪いものではない。しかしもしライオンが自分の食欲を満たすという程度を超えてカモシカを楽しみのために殺すというようなことがあったとすればこれは悪である。しかしライオンや自然界の生き物たちはそういうことはしませんよね。人間だけですね、ルールや限度を無視して破壊してしまうのは。
こんなことでhomeandhomeさんへの回答になっていますか?
Commented by homeandhome at 2004-09-25 11:07
ご回答ありがとうございます。
 人間の場合、「好ましいもの」とするときに、「社会的」なものと「個体的」なものとあるような気がするのです。「個体的」=「本能」として正しい行動を行うことと「社会的」=「理性」としての正しい行動が一致しないのではないか。誰かが「人間は本能の壊れた動物である」と言ったことが有ったと思いますが、その本能と理性の不一致が今の私達を形作っているように思います。そういう意味では「本能」と「理性」のせめぎ合いのうちに私達の文化があるように思うのです。へんなコメントですが、申し訳ございません。
Commented by symwoo at 2004-09-25 11:24
しばらくです。複雑系からの切り込みですね。
表現の良い悪いという価値観の位置けについて考えてみました。
フィードバックというのは、心理学的な反省でいい訳ですね。
例えば、プロ球界の今回の騒動は自省的フィードバックが良く効いた例ではないでしょうか。
球界のあり方を巡って選手会、機構側、オーナー、ファン、評論家といろいろな視点で勝手な主張を繰り広げ、たかが選手という某オーナーの暴言が切っ掛けとなって、ファンの後押しもあって選手は伝家宝刀を抜いて、最大の自己表現である歴史始まって以来のストをしました。その結果は、真摯に反省をしたのかは分かりませんが、機構側が妥協して、なんとか二回目のストは回避されました。ドラマはこれで終わったのではなく、時代の寵児の二者が新規参入を表明し、名物知事達がラブコールする等、役者が揃い新しい段階に入ったと思います。
Commented by symwoo at 2004-09-25 11:28
このドラマでは、皆それぞれに自己表現したわけですが、良い悪いという価値基準で計るならば、透明性、市場主義、脱権力志向という時代の風潮からして選手側に軍配が上がるのは当然です。しかし、これは結果論であり途中の段階では不確定的でした。
このドラマの主役は古田選手でしたが、このドタバタ劇には、擬態のような表現(自己を隠ぺいする表現)をした選手、機構、オーナーもいたように思われます。
さて、勝てば官軍で、選手会が良い自己表現をしたということですが、既に私の価値観が入ってしまっています。
これは誰が筋書を作ったわけでもない現実の戦いであり、脚本家のいない、筋書のないドラマです。良い表現、悪い表現というのはドラマの中のことであり、評論家もそれに含まれ、それぞれに役割を演じているのですね。私もいつの間にか、引き込まれています。

では、複雑系としては表現の良し悪しの位置付けはどうなっているのでしょうか。つまり、複雑系は筋書のないドラマなのでしょうか。それとも脚本家のいる筋書のあるドラマなのでしょうか。
社会には、裁判という裁定者というのがいるのですが、それだって社会の外から見れば、一演じる者にしか過ぎませんよね。
Commented by ykenko1 at 2004-09-26 01:32
>homeandhomeさん
homeandhomeさんの言わんとすることが分かりました。確かに「社会的」に正しいことと「個体的」に正しいことにはギャップがあると思います。私はどちらか一方が良い悪いと言うのではありません。例えば、「個体的」な問題(個人的な趣味のような)、そういうものが悪いとは全く思いません。ただその個人的なものが公の概念の上に立ったものでなければただ単なる自己中心やミーイズムになってしまうことを危惧します。個人が自分の言動に関して責任をもった立場で行えば問題はないのだと思っています。

>symwooさん
コメントありがとうございます。私が良い悪いという表現をしたのが舌足らずだったかもしれません。むしろ発展的とか建設的とか、そういう意味で考えてもらえればと思います。
現在のことの善し悪しはおっしゃるようになかなかその現場にいる者が判定することは難しい側面があると思います。(symwooさんのblogでもテキストの問題はその中にいるものが読み解くことはできないとありましたよね。)ただ歴史を振り返ってみたときにある程度見えてくることがあるのではないでしょうか?そしてそこから学ぶことができると思うのです。
Commented by symwoo at 2004-09-26 10:38
もちろん歴史からは学ぶことは沢山あります。問題はそれをどういう視点で見るかということですが、従来の心理学では、物足りないところがあります。そこで複雑系の心理学に期待するところがあります。
例えば、政治的頽廃のような混乱が起きると、保守と革新のような力が二極化して争い、表現形が生まれ、進化的ドリフトして、新たな社会が創出するとかいうような現象が見られます。これは自己組織化プロセスではないのでしょうか。このような維新的運動には必ずソリトンのような正のフィードバック(それいけどんどん的ダイナミックス、小便をするとぞくっとする感じ等、生理現象には多くあります。)が大きく関わっているのではないでしょうか。従来の説明では、社会心理論や弁証法ということになりますが、正のフィードバックは無視され、暴動等と単純化しているように見えます。カタストロフィーには、負のフィードバックではなく、発散的正のフィードバックが臨界を超える原動力となっているのではないでしょうかか。このような正のフィードバックを複雑系の心理学は、どのように自己表現(変革)の力と関係していると表現(説明)するのかを知りたいと思いました。
Commented by ykenko1 at 2004-09-26 19:44
心理学から離れるかもしれませんが、複雑系の観点からすると歴史的偶然を固定化し、強化、拡大して蓄積し、利用するという戦略を生物の世界では採ります。それと同じような現象が社会現象の上でも起こるようです。
それから「べき乗の法則」と言うのがあります。普通の自然現象は正規分布と言って真ん中にピークが来るような分布をしますが、相互作用の数が増えて複雑になってくると上位のものに集中的に分布するような分布を示すようになります。例えば日本の都市で人口密度の高い順番から並べると、その順位と人口は両対数グラフで右肩下がりの直線上に分布します。人口の多い都市に人口は集中し、順位が下がるほど指数関数的に人口は減少します。
社会現象の場合、物質現象の複雑な場合よりもより複雑になるのは、フィードバックのみならずフィードフォワード、すなわち個々の人間が未来をどのように予測し、それに基づいて現在の行動を変化させるか、という因子がからんでくるためです。
あまり自己表現との関係を説明したことにはなりませんが、私に言えるのはこんなところです。
Commented by symwoo at 2004-09-26 23:17
突然変異とか有性生殖による遺伝子組み換えというがそれですね。
養老さんは、脳は密集したことで、意識が発現したといっています。たしかにべき乗的ですね。

危険を関知する時の恐怖心、性のクライマックスの御褒美などの脳内の早業はフィードフォワードの仕業だと思います。どうしてこんな都合の良い現象が、次から次へと引き起こるのか不思議ですね。


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