最近は複雑系の本を読む事から大分離れていたのだけれども、本屋で郡司ペギオ幸夫氏の『生命壱号—おそろしく単純な生命モデル』(青土社)を見つけて、思わず購入してしまった。大変、興味深く、またその高度な内容に感銘を受けたのだけれど、一番強く感じたのは「今の時代は哲学と自然科学の境界が曖昧になりつつある」と言う事だ。
研究の分野としては構成主義的生物学と言うことになるのだと思う。つまり、ある比較的単純な生命のモデルを作ってその振る舞いを観察しながら、現実の生命についての洞察を得ようとするもの。構成主義的生物学に関連すると思われる本はこれまでに金子邦彦『生命とは何か』(レポート①、レポート②、レポート③、レポート④、レポート⑤)や、池上高志『動きが生命をつくる』を読んだ。それぞれが共通する方法論を持ちながらも、その出発点や目標とするところが異なることから、その論理展開も異なっている。 金子氏は化学反応のネットワークを出発点としながらそのモデルを作り、シュミレーションの結果と大腸菌による実験結果等と比較し、その妥当性を検証している。池上氏の出発点はロボットで、その背景には認知の身体化(embodiment)に関する興味があって、ダイナミカルカテゴリーの話などが出て来る。郡司氏の出発点は生命の本質を「全体と部分の両義性」にあるとして、そこを出発点として非常に単純なモデルを作っている。つまり出発点がとても哲学的で演繹的なのだ。しかしもちろん現実の生命現象との比較検討(真性粘菌における実験)は行っていて、そういう部分は自然科学なのだけれど、半分は哲学の分野に足を突っ込んでいる。そういう方法論に関して異論を唱える向きもあろうけれども、逆にそのようなアプローチ故にその後の論理展開はクリアカットで分かり易い。様々な応用も可能だ。 哲学と自然科学の境界が曖昧になってきていると書いたけれども、郡司氏の著書の中では思考実験が単純なプログラム化され、そのシュミレーションの振る舞いが観察される。それは丁度、抽象的世界の動物行動学の様でもある。 氏の作った生命モデル“生命壱号”は2次元セルオートマトンである。それには内と外があり、外部からの撹乱があり、過去の履歴を現在の行動の中に取り込む履歴依存性がある。外部からの撹乱は食物の取り込みと排出と考えることもできるし、認知的に捉えれば生命にとってのある種の「経験」と考えることもできる。履歴依存性は過去の自分の振る舞いを利用するものなので、自己言及性でもある。生命壱号の運動にはアメーバ運動とネットワーク形成運動があり、認知の様式には探索と利用がある。それらは計算論的に言えば、それぞれ開かれた計算と閉じた計算を意味している。生命壱号は単純でありながらも成長したり、複製したり、問題を解いたりする。 郡司氏の問題意識の中心を「全体と部分の両義性」と書いたが、実際には著書の中では「タイプとトークンの両義性」と表現されたり、「マクロとミクロの問題」と表現されたりする。タイプとトークンとは記号の使われ方の種類で、タイプが一般概念でトークンが個別的具体例である。例えばコーヒーと言ったら飲み物の中のコーヒーというカテゴリーを指す場合と目の前にあるカップに入り湯気を立てている具体的な個物を指す場合がある。タイプとトークンの両義性は存在論的構造でもあり、認識論的構造でもある。氏はこれらの生命現象における両義性の問題について、多くの場合どちらからに還元されて理解しようとするアプローチになってしまうことについて、嘆いている。むしろタイプとトークンの媒介層、あるいはマクロとミクロの中間層が重要であり、本質であると主張する。マトゥラーナ&ヴァレラのオートポイエーシスもウォルフラムのセルオートマトンも両義性の問題を単純化してしまい、本質をつかみ損ねている。オートポイエーシスとは自己制作であるが、そこでは環境としての自己(大文字の自己)と作られる自己(小文字の自己)が論じられる。大文字の自己も小文字の自己も未定義で徹底的に不定に留まらなければならないのに、何か確実に実在するもののように取り扱われている。ウォルフラムのセルオートマトンにおいては臨界現象としてのクラス4が生命現象のメタファーとして用いられているが、それも結局は決定論的カオスと周期的振動の共立に過ぎない。そこにおいてはマクロな現象は結局ミクロなルールに還元されてしまっている。郡司氏は生命壱号式セルオートマトンとしてウォルフラムのセルオートマトンのルールに一段階メタなルールを挿入する事で真の意味での創発現象を可能にする1次元セルオートマトンを提案している。それは観測者の載った計算システムであり、マクロとミクロの間に内部観測者を置いたシステムである。 本書を読む中で西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」という言葉を思い出した。今後も抽象世界と現実世界のスリリングな対話に注目していきたい。
by ykenko1
| 2010-12-30 09:45
| 生物学
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Comments(2)
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山人
at 2011-01-07 21:21
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オートポイエーシス論の立場から言いますと、むしろオートポイエーシスくらい全体と部分の両義性を意識しているものはないと思うのですが。なにしろ、全体・部分という図式すら無効と宣言していますので。
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ykenko1 at 2011-01-08 08:03
山人さん、コメントありがとうございます。オートポイエーシスに関して、実は郡司氏の読み込みが間違っていると言う可能性はあると思います。ただ本書の中でオートポイエーシス論者として、マトゥラーナ、ヴァレラ、ルーマンを挙げていて、更にオートポイエーシスに基づいた人工生命のモデルを作った生物学者としてルイージについても触れられています。郡司氏はルイージの『創発する生命』も翻訳されているようですが、実は郡司氏のオートポイエーシス批判はルイージのモデルの批判ではないかという気がしています。つまりマトゥラーナ/ヴァレラらのオートポイエーシス論を具体的なモデル化する際の手順についての批判ではないか。そして郡司氏はそのモデル形成において全体/部分の二分法の克服に十分な注意を払ったと言うことなのではないか、と。
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